カーサ・ノストラ その2

アメリカ・コーサ・ノストラの歴史 その2

禁酒法時代(1920年代)

禁酒法時代の1920年代は、ムッソリーニ政権による強力なマフィア取締を受けることになったこともあり、大物ボス達までもがイタリアを出国してアメリカに渡ってきました。そして密造酒製造と販売に携わることになり、莫大な巨万の富を築きあげていきました。そして、カステランマレーゼ戦争(後述:2つのファミリー抗争)に勝利したサルヴァトーレ・マランツァーノが「ボスの中のボス(Capo di tutti capi,boss of all bosses)」を名乗ったときに、組織名を「コーサ・ノストラ」と命名したとされています。

それからアル・カポネなどに代表される派手な大物ボスが現れます。そして世間の脚光を浴びギャングスターになりました。かなりギャングとして目立ったこともあり、アメリカ政府の集中取締りを受けるようになりました。

そしてこの禁酒法の時代に「シチリアの晩祷の夜」と呼ばれる事件があり、組織も大きく生まれ変わることになりました。そして同じ年にギャングスターのアル・カポネは投獄されています。

組織力に優れたラッキー・ルチアーノ(Charles "Lucky" Luciano)は組織の潜在化に励むようになりました。ニューヨークの縄張りを五大ファミリーに固定化することなどを始めとして、各地のイタリア系組織を整理・統合していきます。そして他国系移民の犯罪組織とも連携して犯罪シンジケートを構築していきながら、政治との癒着も深めていきました。

マフィアかっこいいよマフィア

禁酒法後

1933年(昭和8年)に13年間続いた禁酒法は終わりましたが、禁酒法が終わってもマフィアは賭博業、売春業、麻薬取引、労働組合などで大きな収入を得ていました。その中でも労働組合は1930年代はマフィアの食い物にされていました。大手自動車会社フォードも被害に遭っていました。

トーマス・デューイがラッキー・ルチアーノを投獄して組織に大きなダメージを与えたかのようにも見えましたが、刑務所からも組織を指揮したといいます。

第二次世界大戦後

ラッキー・ルチアーノは第二次世界大戦中の恩赦によって刑務所を出所しましたが、出所と同時にイタリアに強制送還されました。

1946年(昭和21年)、ベンジャミン・シーゲル(別名バグジー)は、ギャンブルが合法とされていたネバダ州のラスベガスにフラミンゴホテルを完成させます。フラミンゴホテルの開業当時は赤字続きでしたが、徐々に経営が軌道に乗るのをみると、フランク・コステロなど大物マフィアがラスベガスに次々とカジノをオープンさせていきました。

1957年(昭和32年)、アパラチン会議によって合衆国政府はマフィアについての詳細を知ることになりました。そのときに捕まったジョゼフ・ヴァラキが政府側に寝返ったこともあり、それまで長い間「沈黙の掟」によって守られていた組織の詳細が明らかになりました。ヴァラキは、1963年(昭和38年)にアメリカ上院調査小委員会で「コーサ・ノストラ」という正式名を明らかにして、その「コーサ・ノストラ」の内幕を暴露しました。暴露したヴァラキは、組織の中では小物だったこともあり、組織の上層部のことまでは解明できませんでした。

それから後の1970年代に制定されたRICO法(組織犯罪対策法)に基づくFBIの主導による組織犯罪対策が活発化していきました。さらに1980年代に入るとFBIはコーサ・ノストラの壊滅を目指してボスら大物幹部の一斉起訴に踏み切りました。その後は当局へ投降するものが相次いだこともあり、現在ではほぼ壊滅状態にあるといえます。かつて隆盛を誇った20世紀中盤頃までの面影の「コーサ・ノストラ」は今では存在していません。その一方で、生粋のシチリア人マフィアを招いて、世代を経て薄らいでしまった意識のテコ入れを図っているとみられています。

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カステランマレーゼ戦争(1929年~1931年)

ニューヨーク市で発生したイタリア系マフィアの抗争事件をカステランマレーゼ戦争と呼んでいます。その当時のニューヨークを支配していた2つのファミリーのボス、ジョー・マッセリアとサルヴァトーレ・マランツァーノがニューヨークの支配権を巡り抗争しました。両陣営を併せると500人以上の死者を出したとも資料ではいわれています。

この戦争の名前の由来は、シチリア西部の町カステッランマーレ・デル・ゴルフォ出身のマフィア構成員らが多く参加していた事から名づけられています。彼らはシチリア・マフィアの大ボスであるドン・ヴィト・カッシオ・フェッロの指令によってシチリア西部の町からアメリカへと移民してきました。

マッセリア派閥(旧派閥)VSマランツァーノ派閥(新興勢力)

サルヴァトーレ・マランツァーノは1925年に彼のボスでもある前述のドン・ヴィトより、シチリアからアメリカへ送られました。ドン・ヴィトのアメリカ暗黒街を支配するという野望から送り込まれてきました。そして、サルヴァトーレ・マランツァーノの手下には、ジョセフ・ボナンノ、ステファノ・マガディーノ、ジョゼフ・プロファチ、ジョー・アイエロが含まれています。

もう一方の勢力のトップはジョー・マッセリアを頂点とした、主にナポリ出身のギャング達で構成されていました。そのマッセリア派にはアル・カポネ、ラッキー・ルチアーノ、アルバート・アナスタシア、ヴィト・ジェノヴェーゼ、アルフレッド・ミネオ(別名アルフレド・マンフレディ)、ウィリー・モレッティ、ジョー・アドニスとフランク・コステロらが含まれていました。

表面的にこの戦争は、マッセリア派とマランツァーノ派のニューヨークでの覇権争いでしたが、実際には「口ひげピート」と呼ばれる伝統を重んじる保守的なマフィア達と、イタリアの各地域から集まった若い世代のマフィア達との対立でした。この戦争の間では、多くのギャング達は敵対する側に寝返ったり、鞍替えしたり、そして仲間の殺害であったりと内紛を抱えながら覇権争いをし、殺るか殺られるか?!といった状態でした。

戦争の後

たくさんの犠牲者をだし、マッセリア派の幹部も銃撃を受けて死亡したりといった戦争でしたが、マッセリア派のボス、ジョー・マッセリアの死によってカステランマレーゼ戦争は終結を迎えることになりました。勝者となったのはサルヴァトーレ・マランツァーノと彼の率いた伝統的なカステランマレーゼ達でした。

そして、自らをを「ボス中のボス」と名乗ったマランツァーノはニューヨークに5つのファミリーを置くことにしました。ニューヨークの5つのファミリーはラッキー・ルチアーノ、ジョゼフ・プロファチ、ガエタノ・ガリアーノ、ジョゼフ・ボナンノ、ヴィンセント・マンガーノがボスとなることになりました。

そしてリーダーのマランツァーノは、自らを全米の犯罪組織を統括する存在としたのを筆頭に、それぞれのファミリーは1人のボスによって率いられることになました。そして、ボスを補佐する役目として副ボス(underboss)が付けられました。(後に第3のポジションとして相談役(consigliere)が設置)

副ボスの下で、ファミリーはクルーごとに分けられ、クルーはカポまたはカポレジームと呼ばれるキャプテンに指揮されます。そして、その下にソルジャーと呼ぶスタッフが配置されました。また、ソルジャー達の下にファミリーに協力する非ソルジャーを置いきました。(後に彼ら非ソルジャー達はワイズ・ガイ(wise guys)として知られるようになります。)

マランツァーノ死ぬ

「ボスの中のボス」になったマランツァーノですが、その支配も短い期間で終わりました。

1931年9月10日(昭和6年)、マランツァーノはマンハッタン区にある自分のオフィスに居るところをマイヤー・ランスキーとルチアーノの信頼の厚いサミュエル・レヴァインたちユダヤ系の殺し屋達によって銃とナイフで殺害されました。その結果、カステランマレーゼ戦争は、戦いには敗れた旧マッセリア派がマランツァーノを殺すことで、最終的な勝利を収める形となりました。

ラッキー・ルチアーノたちは勝利を手に入れることになった、若くて冷酷なギャング達は、保守的な「口ひげピート」達を次々に排除していきました。その後、彼ら新興勢力の力が増していくと共に、組織犯罪は民族的な垣根を越えた本格的な組織へと成長していきました。