シチリア・コーサ・ノストラ その2

マフィア戦争勃発

1962年12月(昭和37年)、麻薬取引のもつれから始まった、ラ・バルベーラ兄弟たちとグレコ・ファミリーとリッジョたちの抗争が始まりました。その抗争は約半年間の間続きます。結果的にはグレコ側の勝利となりました。

翌年1963年6月30日に、グレコの自宅近くにある不審な車を調査していた7名の憲兵隊員が、車に仕掛けられていた爆弾によって死亡しました。憲兵隊員は車に仕掛けられている爆弾に、更にもうひとつ仕掛けが施されていることに気づきませんでした。この事件を重く見た議会は「反マフィア委員会」を設立して、多くのマフィア構成員たちを逮捕していきました。

しかし、マフィアのボス達は次々と逃亡してその行方をくらませていきました。そして、逃亡したボス達は、海外または国内の潜伏地から組織を操作して、1960年代から1970年代にかけては、南米からトルコを網羅する世界的な麻薬ネットワークを確立していき、その組織を肥大させていくことになりました。

マフィアかっこいいよマフィア

第二次マフィア戦争

1970年代(昭和45年~)に入ると、マフィアの内部に不穏な空気が流れるようになりました。

ルチアーノ・リッジョ(通称:闇将軍)率いるコルレオーネシ(Corleonesi)が、シチリアマフィアの頂点に立つという野望を抱いて、その勢力を拡大し始めていきました。ボスのリッジョは1974年(昭和49年)に逮捕されましたが、リッジョは獄中から、配下のサルヴァトーレ・リイナに指令を出していきました。まず、1978年(昭和53年)に、コミッションの議長だったガエターノ・パダラメンティを追放して、その議長の後釜にミケーレ・グレコ(マフィアの調停役)を据えました。次にステファノ・ボンターデとサルヴァトーレ・インゼリッロたち巧みな策略で孤立へと追い込んでいきます。そして彼らのファミリーの構成員を少しずつ消していきました。最後にボスのステファノとサルヴァトーレも1981年(昭和56年)に暗殺しました。この暗殺事件によって、コルレオーネシ達と敵対するマフィア・ファミリーとの抗争が本格化していき、年間200人以上の死者を出した抗争になりました。そしてこの抗争は「第二次マフィア戦争」と呼ばれました。

おすすめハードボイルド作品
貸し会議室のことは何でもお問合わせください!貸し会議室ルーテル市ヶ谷センター、TKPガーデンシティ竹橋、TKP市ヶ谷カンファレンスセンターなど多くの会議室情報を取り揃えてお待ちしています♪

国家とも抗争

リッジョたちコルレオーネシが敵対するマフィアを一掃し始めたのと同時に、リッジョたちコルレオーネシたちは捜査官や検事など政府関係者らに対しても牙を向けるようになりました。そして、敵対するマフィア構成員はだけではなく、その家族・親戚・女子供、そしてさらに自分達のグループ内のメンバーたちをも粛清し始めていきました。彼らの「マフィアの上に君臨する」という野望を賭けた戦いは、マフィアの掟すらも無視することになり、次第に歯止めがかからない発展していきました。

また、余りに熾烈を極めた抗争だったため、当局側に保護を求めて寝返るマフィアたちも続出していきました。その中でも代表的な人物として名前があがるのは、トンマーゾ・ブシェッタです。彼はブラジルで逮捕されたのちにイタリアに護送されました。そして沈黙の掟を破って当局にマフィアの情報を提供しました。彼が逮捕された折に開かれていたマフィア大裁判で、多くのマフィア構成員を有罪に追い込むための証人として活躍しました。

政府関係者までも抹殺され始めたことを重く受け止めた政府側は、遂にテロリスト撲滅で名を上げたカルロ・アルベルト・ダッラ・キエーザ将軍をシチリアにマフィア対策のため派遣します。しかし、将軍は派遣されてからわずか4ヵ月後の1982年9月3日(昭和57年)にマフィアによって暗殺されました。この暗殺事件に衝撃を受けたイタリア議会は「反マフィア法」を成立させて、マフィア関係者を大量検挙していきました。

1984年2月10日(昭和57年)、パレルモで逮捕されたマフィア構成員476人を裁く「マフィア大裁判」が開かれました。被告にはルチアーノ・リッジョ、ミケーレ・グレコ、ジュゼッペ・カロたちの大物も含まれていました。1987年12月(昭和62年)被告のうちの342人に有罪判決が下りました。リッジョ、グレコは終身刑、カロは23年の懲役刑となりました。

この「マフィア大裁判」が終了したにも関わらず、コルレオーネシの勢いは止まることはありませんでした。実質的なリーダーはリッジョからリイナに代わって、彼らは敵対する全ての勢力の一掃に全力を傾けていきました。

1980年代から1990年代にかけては、公共工事をめぐる不正を発端として、首相経験者を含む有力政治家が摘発され逮捕されました。その際に報復テロとして司法に対しての報復テロが頻発して起ることになり、イタリア社会に暗い影を落としました。

1992年5月22日(平成4年)、反マフィア運動を展開していたジョヴァンニ・ファルコーネ判事が爆弾により暗殺。そしてその数ヵ月後には、暗殺された判事の盟友でもあったパオロ・ボルセリーノ判事も暗殺されました。この2つの悲劇によってパレルモ市民達は大きな衝撃を受けることになり、大規模な反マフィア運動が巻き起こっていきました。

1993年1月15日(平成5年)、23年間逃亡していたサルヴァトーレ・リイナが逮捕されました。彼は逮捕された時に、警官たちに向かって「そうだ、私がリイナだ。おめでとう」と言い、警官たちを褒め称えたといいます。

2006年4月11日(平成18年)、リッジョの配下でもあり、リイナが逮捕された後にコルレオーネシを率いていると言われるベルナルド・プロベンツァーノが40年以上にわたる逃亡の末に、遂に逮捕されました。

2007年11月5日(平成19年)、プロベンツァーノの後継者の1人とされていた、サルヴァトーレ・ロ・ピッコロがパレルモ郊外の家で息子たちと共に逮捕されました。